トップページへ 前のページへ 目次ページへ
議員団紹介 小林久子 議員

終戦から68年 平和の誓い新たに(ひさ子通信8.11)【2013/8/9】

あやまちは繰り返しません

太平洋戦争の敗戦から68年目の夏。8月5日の前橋空襲では、アメリカのB29爆撃機の空爆で、市街地の約8割を消失し、535人とも言われる尊い命が犠牲になりました。負傷者も600人以上、罹災者約6万人以上と言われています。犠牲者を追悼し、比刀根橋近くの慰霊碑前で慰霊祭が行なわれました。

青木満州郎さんの証言 

青木さんは当時中学1年生。軍事訓練や軍事工場への動員で、授業はほとんどなかった。
 昭和20年には1年生しか学校にいなくて、空いた教室には近衛兵が駐留していた。部隊の陣地を作るため、利根川、六供河原へ砂利運搬と壕を掘る作業をさせられたり、食料増産のため通学路に大豆、校庭にサツマイモやかぼちゃを植えたりしていた。
 5月末から農村動員が始まり、麦刈り、田植えや稲刈りなど、長男がいなくなった農村の農作業をおこなった。
青木さんのクラスは上川淵、下川淵に行き、早朝の草刈、桑摘み、麦刈りなど朝から晩まで働いた。

前橋空襲の前日、前期試験と言うことで家に帰った。翌日夜、前橋空襲があり、家の壕に家族と避難したが、おじさんにすく逃げろと言われ、前橋公園に逃げた。家族は無事だったが、けがをした人たちが次々と運ばれ、姉が搬送などに動員された。家も無事だったが、前橋市街地の8割が焼かれ、残った青木さんの家には近所ばかりか、多くの人が身をよせてきたので、全員横になれず、立ったり座ったりで一夜を過ごした。後で空襲で多くの人が亡くなったと聞いた。その後は衛生状態が悪く赤痢、コレラなどでも多くの人が亡くなった。
 日本が二度と戦争をしないよう努力をしていくことが大切だと述べました。

参加者全員で慰霊碑に献花しました。お母さんとこども姿もありました。
 デモ行進は弁天通りから旧麻屋、諏訪橋を曲がり、比刀根橋まで戻ってきました。小林久子議員も参加しました。
 小林久子議員は「比刀根橋には、当時の銃弾のあとが刻まれ、惨状の一部を今に伝えています。直接戦争を知らない世代ですが、戦争の悲惨さをしっかり受け継ぎ、若い世代に伝えていく役割を担っていきます。安倍政権の改憲を許さないたたかいを強めていきましょう。あやまちを繰り返してはいけません。」と述べています。

前橋空襲慰霊祭あと中心街を追悼平和行進
前橋空襲慰霊祭あと中心街を追悼平和行進

◆ほっとコラム◆
一年でもっとも暑い夏、8月を迎えました。前橋プラザ元気21に、平和のための写真展を見にいってきました。
 南京大虐殺、強制連行、従軍慰安婦、沖縄戦、前橋空襲、ヒロシマ・ナガサキの原爆、福島原発災害、あまりにもむごい多くの死と向き合い、こみ上げる気持ちを抑えることができませんでした。
 改めて、戦争の愚かさ、むなしさに怒りが。
再び戦争への道を歩ませてはならない。決意を新たにする夏でもあります。

ページのトップへ